改めまして水谷ゆうきです②〜暗めの幼少期編〜

父親が3人!?実はちょっぴり複雑な家庭事情

みなさんこんにちは。

愛され主任の水谷ゆうきです。

本日は、前回に引き続き自己紹介記事です。

自己紹介記事は、合計3記事+おまけの4記事続きます。

長いっちゃ長いですが、2019年の水谷ゆうきは「さらけ出す」を1つの目標にしているので、お付き合いいただければ幸いです。

生まれた時は未熟児。からの~100キロ超え!

1985年長女として生まれた私は、それはそれは小さくか弱い赤ちゃんだったそうだ。

2000gとちょっとのその赤ちゃんは、周りの大人から「モデルにしたら?」などと言われるくらいには可愛かったらしい。

私の名前は、母がサザンオールスターズのファンで、その息子がゆうきだったからそれを真似して名付けられた。(本当に「ゆうき」というのかはわかりません。あくまで母がそういっていた)

漢字で書くとほぼ100%「ゆきちゃん」と言われるので、ネット界隈ではひらがなの「ゆうき」と名乗っている。

か弱くて壊れそうなほどの小さな赤ちゃんだった私は、現在体重112キロ。おやおや。

大人になってからの体重増加は完全に自己責任だが、そこに至るまでの経過には心の問題が関係している。

ここからは、結構しんどーーい展開が多くあります爆。

不快になったらページを離れることをお勧めします。

私も何十年も書くことを避けてきた幼少期のことです。

共感できる部分は少ないかもしれませんが、書き切ってみますw

思い出しながら書き進めているので「~だった」「~だった」と読みにくい部分もあると思います。少しずつ改善できるようにしていくので、今回はこのまま読み進めてください。

DV夫に虐げられる日々

私が、一番昔の記憶で覚えているのは3歳の私と赤ちゃんの妹が泣いているところ。

父(正確には妹の父。後述)が母にDVや性的なことをしている光景がはっきり脳裏に焼き付いているのだ。

あまりにもおぞましく、今思い出しても息が詰まりそうになるのだが、そういう光景をあの頃の私は日常的に目にしていた。

父に対する嫌悪感、母に対する苛立ち、そういうぐちゃぐちゃな感情を私は随分と長い間こじらせていた。

父の暴力は、私にも容赦なかった。

「食べ方が汚い」「いうことをきかない」

しつけと称して叩かれ、鼻血が出るくらいは平常。ひどい時は口から血を吐き出すこともあった。

母は、この頃の私のことをのちに「本当にあの頃のあんたは聞き分けの悪い子やった。黙って言うことを聞いていればいいのに、なぜか悪いことばかりワザとやるから」と言った。

その意味が子育てをしている今なら分かる。

きっとそんな父親であっても、私は心のどこかで「かまって欲しい」と思っていたのだと。

父からの解放。女だけの生活。

結局、父と母は私が小1の時に離婚した。

「やっと離れられる」

心底嬉しかった。もう我慢しなくていい。

もう好かれようとしなくていい。

けれど、母子家庭になってからは生活のため母は以前にも務めていた水商売へ戻ることになり、母との時間は激減した。

それでも、私はまだオムツだった妹の面倒をみることが母の役に立てることだと必死だった。

学校に行くことは嫌いだった。

夜中に母が帰ってくるのでいつも寝不足だったし、夜は子ども2人きりだったので、どこかでいつも緊張していた。

阪神大震災から1ヶ月後のある夜。震度3くらいの地震があった。

2人きりに耐えきれなくなり、母のお店に泣きながら電話を掛けた。

「帰ってきて」

しかし、答えはもちろんNO

そりゃそうだ。母は仕事中。私と妹のために働いているのだ。

それでも私が母を心から愛せなかったのは、母の「女」の部分を何度も見せられていたからかもしれない。

男は嫌い。悪夢再び。

母は、仕事後に酔って男性を連れて帰ってくることが何度かあった。

私は父の一件から男性が苦手で、母とそういうことをしているのかと想像すると吐き気がした。

男は皆、母をそういう風に見ているのではないか、という気持ちと、そんな男性の視線を母も喜んでいるのではないかという疑念。

女だけの生活に慣れてきてしばらく経った頃、悪夢は再び訪れた。

別れた父が、母とともに帰ってきたのだ。

私は全身に鳥肌がたった。しかし、私も少しは成長し、以前のように言いなりの自分ではなかった。

「無視する」というスキルも身につけていた。

数日だったか数週間だったか全く覚えていないのだけど、その日はやってきた。

私が生活発表会でセリフのある役をすることになり、母には絶対に来て欲しいとお願いしていた日。

母は来なかった。

前にも寝過ごして参観日に来なかったことがあったため、また寝過ごしたんだ、と私は怒りに震えていた。

(約束したのに!約束したのに!)

絶対に家に帰ったら怒ってやる。なんで来んかったんや!って言ってやる。そう思って家に帰った。

ドンドンドン!

ドアを激しく叩いた後、ゆっくり開いた扉の向こうにいたのは、原型を留めないほど顔が腫れた母だった。

え?」

と思ったと同時に、アイツや!と察した。

部屋に入ると、鼻にティッシュを詰めた妹が座っていた。

妹も少し顔が腫れていた。

私は悔しくて仕方なかった。

妹は今まで叩かれたことはなかったのに。

なんで妹までくそくそ

母は、私に妹と一緒に買い物に行くように言った。

顔だけじゃなく、色んなところを殴られて痛かったからだと思う。

その帰り道、私は妹の手を握りながら言った。

「もし次アイツが来たら仕返しする」

「私は母さんのようにはならない」

「男がいないと生きていけない女にはならない」

その後、その男は帰ってこなかった。

新しい男。私の居場所は?

数年後、1人の男性が家を出入りするようになった。

相変わらず男性が苦手だった私はこの男性のことも苦手だった。

母は、男女のそういう行為について隠す気が全くないのか、いつも大きな声が響いていて、私はそれが嫌で堪らなかった。

(そういうことがあって、今私は娘にだけはバレたくない。というかきっと普通はそうw

そういう声を聞くと、母の「女」の部分をまざまざと見せつけられているようで、気持ちが悪い。

ある日、とうとう我慢できなくなり、行為中に部屋の扉をものすごい勢いで叩いた。泣きながら、(やめてくれ)と心の中で唱えながら、何度も何度も扉が壊れるくらい叩いた。

さらに、隣人に苦情を書くかのように、白い紙に「よそでやれ!」等

の言葉を書いたものを扉に貼りまくった。

次の日だったか、数日後だったか、母に呼び出された。

「(彼に)家に来て欲しくないなら、そう伝えるけど」

私は、そうして欲しいとは言えなかった。

母の幸せを奪ってしまうのではないか、とやっぱり心のどこかでは思っていたから。自分が我慢すればいいのだ、と意味のない我慢をまたここでしてしまった。

私はやっぱり、母が大好きで母が大嫌いなのだ。

私の本当のお父さんはどこ?

5のある日。酔った母が泣きながら言った。

「あんたのお父さんと妹のお父さんは違うんや」

「あんたばっかり叩かれてたのはそういうこと」

不思議と悲しいという気持ちはなかった。

それよりも、私が散々叩かれていたのは私が父の本当の子ではないからで、「私が悪い」からではなかったのだ、と安心した。

私には自己肯定感はほとんどなかったから。

私は実の父を知らない。声も顔も。

そして、2016年父は死んだ。

借金があるから、と一応血の繋がりがある私にご丁寧に役所から手紙が届いたのだ。

23歳のとき探しにも行ったのだけど、結局一度も会うことは叶わなかった。

実の父に会ってどうしたかった、ということはない。

それよりも「私の中に流れているはずの半分の血の行方」を知りたかったのだ。ルーツ。遺伝子。私は誰に似ている?どこが似ている?

でももういないんだからしょうがない。実の父に対する思いがここで踏ん切りがついた。

崩壊する中高生。リスカは欠乏した愛の証?

話は中学生の頃に戻る。

中学生から高校生にかけて、私は荒れに荒れた。

いや、不良とかのレベルでいうと下の下なのだけど、止められない反抗期だった。

未成年がしてはいけないことをやっては、一瞬の達成感に浸り、ダサい自分に情けなくなり、腕はリスカで傷だらけだった。

母からは「バカなことをするな」と叱られたけど、きっとこの時もあの小さかった頃の私と同じ「かまってほしい」だったのだと思う。

私のリスカは、高校卒業時には治った。

私は、家族ではないところに居場所を見つけたのだ。

ここまでが、自己紹介②です。

こういう身の上話って、もっと複雑な環境の人や天涯孤独の方もいたりするので自分の話をすることにためらいがあったのですが、今年の私は「さらけ出す」と決めたので、なるべく分かりやすく、けれど不快さを濃くしすぎないように、描写を軽めにして書き切りました。

ちなみに、現在の家族関係は良好です。

相変わらず母に対しての嫌悪感はゼロにはならないし、父(最後に登場した男性が現在の父です)に多少の遠慮はあるけれど、血の繋がりがあっても不仲な関係の人もいるし、これはそれほど重要なことではない、とここ数年で思うようになりました。

それよりも、「自分の気持ちに嘘をつかない」を大事にしようと今は思っています。

次回は、恋愛編~浮気編までをまたまた長文で書きたいと思います!

それでは、また次回^^

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ABOUTこの記事をかいた人

出会って3ヶ月で結婚を決め、半年で妊娠。その後順風満帆に見えた結婚生活も夫の浮気と、愛人の逆襲により人生のドン底を味わう。「自分の好きに生きよう」と決めると、そっぽを向いていた夫から関係修復を求められ、愛妻家へと変貌した。現在は看護師を辞め、パートナーシップに悩む女性や、自己肯定感の低い女性に向けて講座やセッションを通して変わってもらいたいと奮闘中。2019年は無料オンラインサロン開設予定。